HITOSAJI

小さな南の島からくらしのひとさじ

生きるということ

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PHOTO BY SHO

幼い頃、私は木造の長屋で家族と暮らしていた。

築100年近く(母のいうことだから冗談かもしれないが、私は信じている。)という建物。玄関を開けると、急過ぎる階段が目の前にあり、一階の居間のちゃぶ台でご飯を食べ、トイレはタンクからぶら下がった細い鎖を引いたら水が流れた。鍵を閉めなくても良かったし、外に出ると、近所のおばちゃんがいつもおしゃべりしていた。夜は二階の部屋で、父と兄と私で川の字になって、母は川の字に棒を刺すように縦に位置して眠る。天井では、ねずみとイタチが追いかけっこをするような賑やかな家だった。

1995年、私が10歳の頃に阪神・淡路大震災が起こった。

三連休明けの憂鬱な火曜日の朝だ。目が覚めたときには、今まで感じたことのない大きな揺れが襲って来た。古びた家だから大げさに揺れたのだろうと思っていた私たち家族は、焦ることもなくのんびりとしていた。順番にトイレに行き、「どれぐらい大きな地震だったのだろう。」とか「学校が休みかな。」とか「トイレが水でビショビショになっている!」とか、家族内で騒いでいた。日常とは違うなんだかゾクゾクした時間。

やがて、近所の皆さんが我が家から誰も出てこないと心配して、懐中電灯で照らしてきた。「後藤さーん!」と呼ぶ声が聞こえ、とぼけた私たちは外に出た。外に出て、事の重大さに気が付いた。やがて火事が町を襲い、大きな火が町を飲み込んでいく様子を見たときは、「もう死ぬかもなぁ…。」と、静かに覚悟したのを覚えている。幸いにも家は焼けずには済んだが、全壊だった。大切にしていた真っ白なアザラシのぬいぐるみは灰色になってその辺に転がっていた。

しばらく親戚の家に身を寄せてから、半分焦げたマンションの中の空き部屋に家族四人で住み始めた。八畳ほどの部屋の中で、私はとても楽しみながら、ひたすら味噌汁を作ったのを覚えている。ご飯とキュウリの漬物と味噌汁。家族で協力して、毎日を必死に生きている。それがなんとも言えない快感で、ずっとこんな日が続けばいいのにと思っていた。

カオハガンの暮らしには、その必死に生きていた日々に感じた、生き生きとした情熱がある。メラメラと燃えるような炎ではなく、決して消えることのない、温かな炎。家族はもちろんいつも一緒で、家族以外の者もウェルカム。いてもいなくても気にしない。食事を一緒に共にしたり、話になんとなく加わっていたり。横に座ったときに、肌が触れ合うことは当たり前。初めて会う子どもが、恥ずかしそうに手を引いてくる。道端で出会ったお母ちゃんが冗談でハグをしてくる。そんな島民の暮らしが愛おしい。この暮らしの渦の中に私も入りたいと思うようになった。

ある一人の島民からアプローチを受けて、お付き合いをすることとなった。その人が、現在の夫である、ジャンドレーである。

彼は、カオハガンで生まれ、育った。比較的、背が高く(といっても170cm程)、ほどよく付いた筋肉、黒々とした肌。大きな瞳で、笑うと優しい顔になる。そんな彼は、かなりのプレイボーイだと多くの島民に噂され、「あんな奴と付き合うのはよしなさい。」と、何人かの島民にアドバイスされた。だが、私にはそう映っていなかった。ワイルドで生きものを愛する男、それが彼の印象。

「例え、彼にどんな悪い過去があっても、過去に起こしてしまった行いは、現在の行いによって償うことができるのだよ。」ということを、アドバイスしてくれた島民に伝えた。実際に、彼には色々あったようだが、私にも色々あった。綺麗な真っ白のままのキャンパスの人生なんてあり得ない。

ジャンドレーとは、お互いの生い立ちをシェアし合った。過去は変えることができない、起こしてしまった良い行いも悪い行いも、自分がその時にした選択が精一杯だったのだと認めること。現在をどのように生きていくかが大切なのだと話し合った。こうして、ジャンドレーとの交際が始まり、彼の素朴な目線で見ているカオハガン島を一緒に体験する生活が始まった。

ヨーガの教えでは、すべての人がその人生でなすべきことがあるという。それをダルマと呼んでいる。私は、カオハガン島で人間本来のシンプルな暮らし方を学び、生活していく。そして、この文化を発信していくことが、私のダルマであるではないかと感じ始めていた。